はせどうじょうせめ
長谷堂城攻め
慶長5年/1600年9月29日




(和泉鳥取やぐら・小屋根欄間左面)



長谷堂城攻め(慶長5年/1600年9月29日・直江兼続 vs 最上義光・留守政景)

上杉軍の家老・直江兼続は長谷堂城近くの菅沢山に陣を取り、長谷堂城を包囲した。9月15日、最上義光は伊達政宗に援軍を依頼。伊達政宗は留守政景を救援に派遣することを決める。同日、直江兼続は大軍を背景に力攻めを敢行。しかし最上義光の重臣・志村光安は巧みに防戦し、翌16日には上杉軍の春日元忠軍に夜襲を仕掛ける。これにより上杉軍は大混乱に陥り、志村光安は直江兼続のいる本陣近くまで攻め寄った。

9月17日、直江兼続は春日元忠に命じさらに城を激しく攻め立てた。そこへ最上義光軍が一斉射撃を浴びせて上杉軍を散々に撃ち付けた。業を煮やした直江兼続は長谷堂城付近で刈田狼藉を行い城兵を挑発するが、志村光安は挑発には乗らなかった。

9月21日には伊達政宗が派遣した留守政景の軍勢が白石から山形城の東方に着陣、9月24日には直江兼続本陣から約2km北東の須川河岸の沼木に布陣する。また最上義光も9月25日に山形城を出陣、稲荷塚に布陣した。ここで一時戦況は膠着するものの9月29日上杉軍は総攻撃を敢行、長谷堂城を守る志村光安はなおも善戦し、上杉軍の武将・上泉泰綱を討ち取るという戦果を挙げた。



◎ 山形県山形市大字長谷堂付近の地図


300万広域図 (潟Aルプス社 "プロアトラスSV"より) ※ 上図をクリックすると拡大します。



25万広域図 (潟Aルプス社 "プロアトラスSV"より) ※ 上図をクリックすると拡大します。







和泉鳥取 / 小屋根欄間左面



先代・自然田上東組 / 大屋根幕板右面