おだのぶなが きしゅうえんせい
織田信長 紀州遠征
天正5年/1577年3月1日




(上記写真は下出やぐら・大屋根欄間正面)



● 織田信長紀州遠征(天正5年/1577年3月1日・織田信長 vs 雑賀衆)

元亀元年(1570年)頃から一向宗の中心となっていた石山本願寺と織田信長の間に合戦が始まりました。一方今の和歌山市周辺の有力な農民達は、太田城を中心にしてまとまり雑賀衆(サイカシュウ)と言われ、この雑賀衆は根来で作っていた鉄砲をもち強い力を持っていました。またその鉄砲を石山本願寺に送って応援してました。天正5年(1577年)、信長は石山本願寺を後ろから助けている雑賀攻めを行いました。この時、信達市場から熊野街道を離れて今も信長街道と呼ばれている道をたどって阪南市に入り、淡輪まで行ってから一気に雑賀攻めを行いました。その後波太神社に本陣をおいて雑賀が降伏するのを待ちました。ところで、信長が雑賀攻めの時通った道を信長街道と言います。

・天正5年(1577年)2月16日−貝塚 → 2月18日−佐野 → 2月22日−信達 → 2月28日−淡輪 → 3月1日−雑賀攻め → 3月2日−波太神社

その後、信長が部下の明智光秀に殺され、その弔い合戦に勝って天下人となった秀吉は、天正13年(1585年)10万人の軍勢を率いて根来を攻めています。またこの時には泉南市の林晶寺や阪南市の波太神社なども焼き払われました。

・天正13年(1585年)3月21日−岸和田城入城 → 3月22日−信達,鳥取 → 3月23日−根来寺 → 3月24日−粉河寺 → 3月25日−土橋城攻め → 3月27日から4月23日−雑賀(太田城)



◎ 和歌山県和歌山市雑賀崎付近の地図


300万広域図(潟Aルプス社 "プロアトラスSV"より)   ※ 上図をクリックすると拡大します。



25万広域図(潟Aルプス社 "プロアトラスSV"より)   ※ 上図をクリックすると拡大します。







下出やぐら / 大屋根欄間正面