- 彫物題材 feat. 桶狭間の戦い -
- 2008/4/29 -



(上記写真は下出やぐら・正面向かって左側大屋根幕板)



● 桶狭間の戦い(永禄3年/1560年5月19日・織田信長 vs 今川義元)

永禄3年(1560年)5月、尾張に侵攻する今川義元の大軍を前に、織田信長の重臣達は「篭城すべし」と主張、もしくは全軍を前線へ展開し、今川軍に備えるべきだと言う者もいたが、織田信長は明確な作戦を指示しない。

そんな中5月19日未明、今川勢が織田方の丸根砦、鷲津砦に攻めかかったと言う急報を受けた織田信長は、「螺を吹け!具足を寄こせ!」と出陣を号令。実は織田信長には明確な勝算があったのだ。今川義元の前線基地は大高城、そのため今川義元は、尾張の沓掛から大高城へ入るのは明らかであった。「大高城に向かうには、狭間と呼ばれる狭く、細長い窪地を通らねばならない。今川義元本隊がそこにさしかかって、列隊が伸びきった時、わが全兵力をそこに集中させれば、今川義元の首は必ずとれる」。

小兵力が大軍に勝つためには、兵力を一点に集中させ、それをもって敵の本陣に襲いかからせ敵の大将の首を討ち取るしかない。これが織田信長の勝算だった。そのためには今川義元本陣の動きを的確に知る事だった。織田信長は砦を守る家臣や、各所に配したスパイから今川義元の動きを逐一、報告されていた。

その時、密偵が「今川義元は、沓掛から桶狭間に入りました」と伝える。続いての密偵が「今川義元は田楽狭間にて、小休止中です」と報じてきました。織田信長が想定してた通り、今川義元本陣は狭間に入り、しかも小休止いしている。本陣周辺には2,000の兵しか留まる事ができないはずである。織田信長は勝利を確信した。

この時織田信長の頭の中には、田楽狭間に敵の目をかわして、いかに早く到達するかと言う思いしかなかった。その時、突然豪雨が降りしきり、一時だけではあるが織田信長軍を秘匿してくれたのだった。織田信長軍が桶狭間山の山頂に着いた時、「かかれ!」の号令がかかり、今川義元本陣めがけて攻撃した。今川義元本陣は、突然の敵襲にあわてふためき、崩壊した。

   …

◎ 愛知県豊明市栄町付近の地図


300万広域図(潟Aルプス社 "プロアトラスSV"より)   ※ 上図をクリックすると拡大します。


25万広域図(潟Aルプス社 "プロアトラスSV"より)   ※ 上図をクリックすると拡大します。