- 彫物題材 feat. 長篠の戦い -
- 2008/5/25 -



(上記写真は下出やぐら・正面向かって大屋根欄間・右面)



長篠の戦い(天正3年/1574年5月21日・織田信長,徳川家康 vs 武田勝頼)

天正3年4月、甲斐の武田勝頼は15,000の兵尾率いて三河に侵入、長篠城を包囲した。長篠城の守備は、徳川家康についた奥平定昌以下わずか500人だったので、城兵の鳥居強右衛門はひそかに徳川家康のもとに行って、援軍を求めた。徳川家康から援軍を求められた織田信長は、この合戦で武田軍に壊滅的な打撃を与えてやろうと岐阜を発った。

織田信長はすでに必勝の戦略を練り上げていた。それは大量の鉄砲と馬防柵によって、戦国時代最強とうたわれた武田騎馬軍団を徹底的に叩くことである。

5月21日午前6時、夜明けとともに武田軍の攻撃が開始された。織田信長は全軍に「兵は柵を出て戦うな。敵を十分に引き付けて、鉄砲を打て」と厳命した。鉄砲隊はそれぞれ三隊に編成され、一隊は撃ち方、一隊は点火態勢、一隊は弾丸を込める、いわゆる三隊武装填法を展開した。あるいは三人が一組となって、順次に鉄砲を撃ったとも言われている。

午前6時に始まった戦いは、武田軍は次々と鉄砲の餌食になっていった。8時間近くの戦いの間、武田方は19回にのぼる突撃をくり返したが、死傷者は増えるだけである。遂に武田勝頼は敗走したのである。

この長篠の戦いは、これまでの刀や槍だけによる合戦の形態を一変させた。

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愛知県南設楽郡鳳来町長篠付近の地図


300万広域図(潟Aルプス社 "プロアトラスSV"より)   ※ 上図をクリックすると拡大します。


25万広域図(潟Aルプス社 "プロアトラスSV"より)   ※ 上図をクリックすると拡大します。