- 彫物題材 feat. 姉川の合戦 -
- 2008/6/1 -



(上記写真は下出やぐら・正面向かって大屋根欄間・左面)



姉川の合戦(元亀元年/1570年6月28日・織田信長・徳川家康 vs 朝倉義景・浅井長政)

元亀元年(1570年)4月、織田信長は突然兵を起こして京都を出、越前へ向かった。将軍足利義昭の策略に応じる気配を示す朝倉義景を討つためである。織田信長は朝倉氏の本拠を討つべく木芽峠を越えようとした時、浅井長政が朝倉氏加勢の兵を挙げたのである。このまま兵を進めれば朝倉・浅井軍に討たれる。織田信長はすかさず全軍を退却させる決断を下した。退却は進軍よりも難しい判断である。

一旦岐阜に戻って兵を整えた織田信長は6月、2万の兵と徳川家康の援軍5000、計25000の兵を持って出動した。だが浅井長政治のいる小谷城は難攻不落の要塞地にある。そこで織田信長は、支城となる横山城を包囲した。織田信長の陽動作戦は見事に成功し、思惑通りに朝倉・浅井軍は横山城近くを流れる姉川に出陣してきた。浅井軍は8000、朝倉軍は1万、計18000。両軍は姉川を隔てて対峙した。

5000の兵を率いて参戦した徳川軍は朝倉軍と激戦。ついに朝倉軍を押し戻した。一方織田軍は浅井軍と激戦。一時は13段構えをとっていた中の11段まで崩れたが、早くも朝倉軍を押し戻した徳川軍が援軍として浅井軍の右翼に攻撃。さらに横山城の備えについていた兵2000が浅井軍の左翼を攻撃。攻撃を保っていた浅井軍は一転守勢にまわざるを得なくなってしまい、ほどなく敗走したのである。

激戦は実に9時間、朝倉・浅井軍の死者は1700余り、織田・徳川軍の死者は700余り。姉川は死傷者の血で真っ赤に染まったと言われている。

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滋賀県長浜市東上坂町付近の地図


300万広域図(潟Aルプス社 "プロアトラスSV"より)   ※ 上図をクリックすると拡大します。


25万広域図(潟Aルプス社 "プロアトラスSV"より)   ※ 上図をクリックすると拡大します。