- 彫物題材 feat. 賤ヶ岳の戦い -
- 2009/8/9 -



(上記写真は下出やぐら・正面向かって左側大屋根欄干幕板)



賤ヶ岳の戦い(天正11年/1583年4月19日・羽柴秀吉 vs 柴田勝家)

天正11年(1583年)4月、柴田勝家が2万の兵を率いて柳ケ瀬に陣を敷いた。「勝家出陣」の知らせを聞いた羽柴秀吉は賤ヶ岳に進出。本陣を木之本におき弟の秀長を田上山に、堀秀政を左弥山、中川清秀を大岩山、高山重友を岩崎山、桑山重晴を賤ヶ岳に配置、その数75,000。両軍1ヶ月近くにらみ合いが続いた中、このスキを衝いて再び決起したのが織田信孝である。織田信孝は羽柴秀吉の大垣城に放火。これに怒った羽柴秀吉は13,000の兵をもって大垣城に急いだ。羽柴秀吉が美濃に兵を進めたと言う知らせを受けた柴田勝家方は、手薄になった羽柴秀吉方に、柴田勝家の甥の佐久間盛政が奇襲攻撃をかけたのである。「柴田勢動く」との知らせはすぐに大垣城の羽柴秀吉に伝わり、木之本に兵を返した。50kmの道のりをわずが5時間で駆け抜けた。「美濃返し」と言う羽柴秀吉得意の電撃作戦である。

一方、勝ちに乗じる佐久間盛政は、柴田勝家の引き上げの命を無視して戦を続けると大軍が接近。慌てて退却する。賤ヶ岳の西方に陣取る柴田勝家は、退却する佐久間盛政軍と合流すべく山中を移動、それを見た羽柴秀吉はただちに攻撃を加え、柴田勝家軍は総崩れとなって敗走を始める。

   …

◎ 滋賀県伊香郡木之本町大字大音付近の地図


300万広域図(潟Aルプス社 "プロアトラスSV"より)   ※ 上図をクリックすると拡大します。


25万広域図(潟Aルプス社 "プロアトラスSV"より)   ※ 上図をクリックすると拡大します。