- 彫物題材 feat. 堀河夜討 -
- 2010/2/27 -



(上記写真は陸宮本やぐら・正面向かって右側大屋根幕板)



堀河夜討(文治元年/1185年10月17日・源義経 vs 土佐坊)

壇ノ浦で平家を討ち滅ぼし、積年の宿願を果たした源義経は京へと凱旋するのであるが、予ねてより義経と折り合いが悪かった梶原景時が源頼朝に、義経は平家討伐の功を、自分一人のものとしていると云う、讒言(ザンゲン)の書状を届けるのである。一ノ谷の合戦の功績で後白河法皇より検非違使の官位を鎌倉の許しを得ずして賜った事で、既に頼朝の怒りをかっていた義経であるが、さらに壇ノ浦の戦功で義経が法皇の信を得るとともに、武士達の心をも集める事は、鎌倉政権の確立を目論む頼朝にとって脅威となるものであるため、頼朝は義経を妬み危惧していた。そこへ景時の讒言とがあいなり、ついに頼朝は義経討伐を決意し、土佐坊昌俊らを京へと送り込むのであった。義経は京に入った土佐坊を詮議するが、土佐坊は「わたしは京奈良の寺々に参拝するために来たのだ」と、それに対し義経は「吾を討つ気なればいつでも来たれり」とだけ云い土佐坊を開放する。しかしその夜(文治元年/1185年10月17日)、義経の慧眼通り土佐坊は六条堀河の館を襲撃する。堀河館の義経は郎党わずか七人と静御前とであったが、土佐坊らを散々に討ちまかし夜討ちは失敗に終るのであった。

※ 陸宮本やぐら新調記念誌より抜粋 / 許可済 / 無断転用厳禁