- 彫物題材 feat. 槍摺乃鎧 -
- 2010/3/7 -



(上記写真は陸宮本やぐら・後面向かって右側小屋根幕板)



槍摺乃鎧(慶長14年/1614年11月21日・徳川家康 vs 真田左衛門佐幸村)

住吉に本陣を定めた徳川家康は、大坂城の攻め口を見積もらんものと巡見に出たが、家康が乗りたる馬が歩を進めなくなったため、訝しく感じた大久保彦左衛門や本多佐渡守正信の注進で、米倉和泉守俊重を家康の名代にたてたところ、米倉和泉守は家康をつけ狙う真田幸村の火縄の銃弾によって倒れるのであった。しかし堅城である大坂城を落とすには自ら攻め口を見積らねばならぬと、家康は日を改め夜も明けぬうちに、僅かな旗本勢と内々に巡見へと出た。そして前内裏島へ進み出たところで大坂方の伏兵に襲撃をうけ旗本勢が慌てふためき浮き足だったところへ、一際立派な甲冑武者が「拙者(ソレガシ)は真田左衛門佐幸村なり今日こそは大御所の御首級(ミシルシ)頂戴に及ばん」と音声をあげ家康の馬前に駒を進めた、彦左衛門は慌てて傍らより幸村めがけ槍を突き入れるが槍を搦落とされてしまう、そこへ数名の旗本勢が幸村めがけ討ちかり、その隙に彦左衛門は家康を馬に乗せ一丁ばかり逃れるも、馬が前脚を折って倒れてしまうのであった。齢七十四の家康は馬なしで逃れるは難く、身を隠すところはないかと探すうちに道を踏外して、堤の下へころげ落ち葭葦繁る朽木の水溜りへ身を忍ばせた、そこへ駆けつけて来た武将があり、別人なき幸村その人であった。幸村は僅かに揺れる葭葦めがけ二間柄の槍を突き入れると、槍先にコツっと何かが当たったが木の根とも思えず、力を込め二度三度と槍を突き入れるも、悪運強き家康の鎧をかすめるが気配がしない、ここまで追い詰めたたがやはり切株であったかと無念に思ったが、夜も明ければ関東方の多勢の追っ手が押し寄せ来るであろうと、大坂城へ馬を返すのであった。この時の鎧は「槍摺乃鎧」として徳川家の家宝となったとの伝承もある。 【大坂冬之陣】

※ 陸宮本やぐら新調記念誌より抜粋 / 許可済 / 無断転用厳禁