- 彫物題材 feat. 半田寺山家康落命 -
- 2010/3/7 -



(上記写真は陸宮本やぐら・後面向かって左側小屋根幕板)



半田寺山家康落命(元和元年/1615年5月7日・徳川家康 vs 真田左衛門佐幸村)

平野の樋尻口で地雷火にあい真田勢に散々に襲われ、わずかな旗本たちと和泉路へむけ南へと逃げ出した徳川家康であったが、突如藪の中から六連銭の幟を背負った武者が現れ「我こそは真田左衛門佐幸村なり大御所御覚悟」と音声をあげ駆けてきた、それ真田が出たと家康は慌て、駒に鞭入れ逃げに逃げる。数丁ほど行くと「我こそは真田左衛門佐幸村なり」と、また幸村が現れ、次々と七人もの幸村が現れては家康を追いたてた。家康は逃げに逃げたが、ついに馬がつぶれ徒歩で退いたが、老体ゆえ歩けなくなり彦左衛門に輿はないかと探させるも輿などはなく、仕方なく横田甚五郎が林の中の寺から亡者駕篭を見つけてきた。家康は「わしは若かりし頃より難にあいし事数知れず、死したる真似をする事度々なれば、これ逆に吉事と思いけり」と言って亡者駕篭に入り、旗本勢が担いで和泉路へと掛かり、半田寺山まで退いたところでひと休みしていた。そこへ熊野新宮に秀頼公の子、国松殿を迎えに行き大坂城へ戻る途中の後藤又兵衛基次と出くわすのであった。又兵衛はこの一行が何者か知れなかったが「口惜しき事また真田に謀られた」と話す声が聞こえ、それを耳にした又兵衛は国松君を母衣に包み背負うと、討ってかかり十四五人を谷へ突き落とし、駕篭の中へ名槍日本号を突き入れた。火急の事に彦左衛門は慌てて槍の柄を半ばより切り落としたが、又兵衛は太刀を抜いて二三合渡りあうも、駕篭の中が家康だとは夢にも知らず、国松殿大切と思い強いて深入りせずその場を立ち去るのであった。そして彦左衛門が駕篭をあけると家康は既に事切れており、おどろいた旗本勢は堺の南宗寺へ家康の亡骸を運び、隠密裏に埋葬し南光坊天海を家康の影武者に仕立て、再び大坂城を攻めるのであった。 【大坂夏之陣】

※ 陸宮本やぐら新調記念誌より抜粋 / 許可済 / 無断転用厳禁