- 彫物題材 feat. 尼崎危難 -
- 2016/10/30 -



(上記写真は先代・自然田東組やぐら・大屋根欄間正面)



尼崎危難(天正10年/1582年6月11日・羽柴秀吉)

天正10年/1582年6月2日、本能寺の変で明智光秀に討たれた織田信長の敵討ちのために羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は備中高松城より京に向けて大移動する。いわゆる中国大返しである。道中、兵庫県尼崎市武庫川あたりで明智光秀方の武将:四方田但馬守(ヨモダタジマノカミ)が羽柴秀吉に襲いかかり慌てた羽柴秀吉は広徳寺に逃げ込み、自ら髪を落とし味噌摺り坊主に化け難を逃れました。一方、四方田但馬守は駆けつけてきた虎之助こと加藤清正と組み討ちとなり、組み伏せられて自害しました。いわゆる「尼崎危難」である。

一方、二人が尼ヶ崎で相戦った時、加藤清正の刀が中ほどから折れ、四方田但馬守が斬り込めば加藤清正を討てる処だった。しかし四方田但馬守は折れた刀の人を討つのは武士の情けにあらずと思い、加藤清正の申し出に応じて組み討ちをした。組み討ちをすると加藤清正が優勢で短刀を四方田但馬守の喉に突きつけようとするが、加藤清正も武士の情けを知る人間だったため、自らの刀が折れた時の情け猶予をくれた四方田但馬守を殺すには忍びないと思い、四方田但馬守を助け起こしいずれ改めて勝負をしようと約束し別れたという美話も残る。