- 彫物画廊 feat. 岡田北組 #.1 -
- 2015/1/24 -






昨年8月17日(日)、岡田北組が太鼓の幕の修理のためにやぐら小屋を開けるとの情報を得、部外者ながら彫物の撮影に行き、沢山の彫物を撮影してきました。そこで今回、「彫物画廊」と題して岡田北組のやぐらの彫物を御紹介します。まず今日は岡田北組のやぐらの大屋根幕板右面の題材である「関ヶ原 獅子奮迅 鬼左近大乱戦」を御紹介しようと思います。その前にまずは「関ヶ原の戦い」の題材について。



関ヶ原の戦い(慶長5年/1600年9月15日・徳川家康 vs 石田光成)

慶長3年/1598年8月18日豊臣秀吉の死後、天下を奪おうと徳川家康が動き出すが反徳川家康派の武将たちは警戒を強めていった。その様な中、豊臣政権下に豊臣秀吉の側近として政務を取り仕切っていた石田三成ら文治派と武断派との間には対立が生じていた。政権内部での両派の対立の深刻化と徳川家康と武断派諸将との接近などを経て慶長5年1600年9月15日に戦いが関ヶ原の戦いが勃発した。

関ヶ原の戦いでは徳川家康を総大将とする東軍と毛利輝元を総大将とし石田三成を中心とする西軍で戦った。5時に東西両軍が布陣完了し8時に開戦。当初、東軍がやや押しているが一進一退の攻防が続き徳川家康は苛立ち正午、両軍の戦況が落ち着くまで動かない考えであった松尾山にいる小早川秀秋に一斉射撃、小早川秀秋がこれを攻撃ととって西軍を裏切り東軍に加戦、これにより東軍が優位になり13時頃より西軍が潰走し始め15時には東軍が戦勝を祝った。

俗に「天下分け目の戦い」と言われる戦いは20万人が集合したが激突は7時間で終戦、石田三成らは処刑され徳川家康の覇権が確立した。

彫物は西軍として戦う島左近の姿が刻まれています。



彫物画廊 feat. 岡田北組 #.1 (彫物画廊通算 #.89)
   彫物題材:関ヶ原 獅子奮迅 鬼左近大乱戦 / 大屋根幕板右面