- 彫物画廊 feat. 先代・自然田東組 #.10 -
- 2016/10/30 -






9月,10月の祭り前後のバタバタもようやく終わり、約2ヶ月ぶりに「彫物画廊」を御紹介しようと思います。正直、今年の祭り前後は全くやぐらの彫物の写真を撮影する機会がありませんでした。故に昨年以前の蔵出しを来年8月までする格好となり、ネタが尽きないかが心配です。 (^^ゞ汗 祭りオフシーズンですがやぐら出して彫物撮影する機会があるならば是非とも御一報頂ければ幸いに存じます。

さて今日は先代・自然田東組のやぐらの大屋根欄間正面の題材である「虎之助 四方田但馬守の血戦」を御紹介しようと思います。その前にまずは「虎之助 四方田但馬守の血戦」の題材について。



虎之助 四方田但馬守の血戦(天正10年/1582年6月11日・加藤清正 vs 四方田但馬守)

天正10年/1582年6月2日、本能寺の変で明智光秀に討たれた織田信長の敵討ちのために豊臣秀吉は備中高松城より京に向けて大移動する。いわゆる中国大返しである。道中、兵庫県尼崎市武庫川あたりで明智光秀方の武将:四方田但馬守(ヨモダタジマノカミ)が豊臣秀吉に襲いかかり慌てた豊臣秀吉は広徳寺に逃げ込み、自ら髪を落とし味噌摺り坊主に化け難を逃れました。一方、四方田但馬守は駆けつけてきた虎之助こと加藤清正と組み討ちとなり、組み伏せられて自害しました。いわゆる「尼崎危難」である。

一方、二人が尼ヶ崎で相戦った時、加藤清正の刀が中ほどから折れ、四方田但馬守が斬り込めば加藤清正を討てる処だった。しかし四方田但馬守は折れた刀の人を討つのは武士の情けにあらずと思い、加藤清正の申し出に応じて組み討ちをした。組み討ちをすると加藤清正が優勢で短刀を四方田但馬守の喉に突きつけようとするが、加藤清正も武士の情けを知る人間だったため、自らの刀が折れた時の情け猶予をくれた四方田但馬守を殺すには忍びないと思い、四方田但馬守を助け起こしいずれ改めて勝負をしようと約束し別れたという美話も残る。



彫物画廊 feat. 先代・自然田東組 #.10 (彫物画廊通算 #.210)
   彫物題材:虎之助 四方田但馬守の血戦 / 大屋根欄間正面