- 彫物画廊 feat. 岡田北組 #.19 -
- 2017/7/26 -






前回に引き続き「彫物画廊」と題して岡田北組の彫物を御紹介します。今日は大屋根板勾欄左面の題材である「鬼玄蕃 秀吉本陣急襲」を御紹介します。その前にまずは「賤ヶ岳の戦い」の題材について。



賤ヶ岳の戦い(天正11年/1583年4月19日・羽柴秀吉 vs 柴田勝家)

天正11年/1583年4月、織田家最古参の重臣である柴田勝家が2万の兵を率いて近江国柳ケ瀬に陣を敷いた。勝家出陣の知らせを聞いた羽柴秀吉は75,000の兵を率いて賤ヶ岳に進出。両軍1ヶ月近くにらみ合いが続く中、このスキを衝いて織田信孝は羽柴秀吉の大垣城に放火。これに怒った羽柴秀吉は13,000の兵をもって大垣城に急いだ。羽柴秀吉が美濃に兵を進めたと言う知らせを受けた柴田勝家方は手薄になった羽柴秀吉方に、柴田勝家の甥:佐久間盛政が奇襲攻撃をかける。その知らせはすぐに大垣城の羽柴秀吉に伝わり、木之本に兵を返した。50kmの道のりをわずが5時間で駆け抜けた「美濃返し」と言う羽柴秀吉得意の電撃作戦である。

佐久間盛政は鉄棒を振り上げ単騎乗り込んだ。何人かを倒し向こうを見ると小高い所に羽柴秀吉を見つけ駆け上った。遂に羽柴秀吉との間三段程になりあわやと思われたのだが羽柴秀吉は「尾籠なり下郎め」と叱り、佐久間盛政の頭を貫いた。佐久間盛政は後ずさり馬も身振いして進まず退去した。いわゆる「秀吉本陣佐久間の乱入」である。その後、佐久間盛政は柴田勝家の引き上げの命を無視して戦を続けると大軍が接近し慌てて退却する。賤ヶ岳の西方に陣取る柴田勝家は退却する佐久間盛政軍と合流すべく山中を移動、それを見た羽柴秀吉はただちに攻撃を加え柴田勝家軍は総崩れとなって敗走を始めた。羽柴秀吉はこの戦いに勝利し織田信長の正統な継承者となる事を決定づけた。

また賤ヶ岳の戦いにおいて羽柴秀吉軍に功名をあげた兵のうち、福島正則(1561年-1624年)、加藤清正(1562年-1611年)、加藤嘉明(1563年-1631年)、脇坂安治(1554年-1626年)、平野長泰(1559年-1628年)、糟屋武則(1562年-1607年)、片桐且元(1556年-1615年)の7人は後世に賤ヶ岳の七本槍と呼ばれる。実際に感状をたのは桜井佐吉、石川兵助一光も同様であるが、後の語呂合わせで「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれる様になった。



彫物画廊 feat. 岡田北組 #.19 (彫物画廊通算 #.280)
   彫物題材:鬼玄蕃 秀吉本陣急襲 / 大屋根板勾欄左面