- 彫物画廊 feat. 北野 #.18 -
- 2018/1/20 -






前回に引き続き「彫物画廊」と題して北野の彫物を御紹介します。今日は大屋根板勾欄左面の題材である「姉川の戦い」を御紹介します。その前にまずは「姉川の戦い」の題材について。



姉川の戦い(元亀元年/1570年6月28日・織田信長・徳川家康 vs 朝倉義景・浅井長政)

元亀元年/1570年4月、織田信長は突然兵を起こして京都を出発し越前へ向かった。将軍足利義昭の策略に応じる気配を示す朝倉義景を討つためである。織田信長は朝倉義景の本陣を討つべく木芽峠を越えようとした時、浅井長政が朝倉義景へ加兵した。このまま兵を進めれば討たれると思い織田信長はすかさず全軍を撤退させる。

一旦岐阜に戻って兵を整えた織田信長は6月、徳川家康の援軍を加えて出陣、だが浅井長政治のいる小谷城は難攻不落の要塞地にある。そこで織田信長は支城となる横山城を包囲、織田信長の思惑通りに朝倉義景・浅井長政軍は横山城近くを流れる姉川に出陣、両軍は姉川を隔てて対峙した。

元亀元年/1570年6月28日、徳川家康軍は朝倉義景軍と激戦、ついに朝倉軍を押し戻した。一方の織田信長軍は浅井長政軍と激戦、そこへ徳川家康軍が援軍として浅井長政軍の右翼に攻撃。さらに横山城の備えについていた兵が浅井長政軍の左翼を攻撃。攻撃を保っていた浅井長政軍は一転守勢にまわり、ほどなく敗走しました。

激戦は実に9時間、朝倉義景・浅井長政軍の死者は1700余り、織田信長・徳川家康軍の死者は700余り。姉川は死傷者の血で真っ赤に染まったと言われている。



彫物画廊 feat. 北野 #.18 (彫物画廊通算 #.313)
   彫物題材:姉川の戦い / 大屋根板勾欄左面