- 彫物画廊 feat. 大苗代 #.28 -
- 2018/7/4 -






平成27年12月26日(コンデジ時代の#.1,#.2を除く)より御紹介してきました大苗代の「彫物画廊」ですが今回が最終回になります。言い換えれば大苗代の素晴らしい彫物の魅力を約2年6ヶ月の歳月をかけて全て御紹介しました。 \(^o^)/ 彫物画廊にて【全制覇】したのは和泉鳥取,自然田上東組,大西町,岡田西組,男里南組,岡田北組,先代・自然田東組,北野に続いて9台目です。

最終回の今日は大苗代のやぐらの小屋根幕板左面の題材である「巴御前勇戦」を御紹介します。小屋根幕板左面は以前、小屋内でコンデジで撮影した画像を御紹介しましたが一眼レフカメラで撮影した画像を改めて御紹介しようと思います。その前にまずは「粟津合戦」の題材について。



粟津合戦(寿永3年/1184年1月21日・源頼朝 vs 源義仲)

寿永3年(1184年)1月21日、後白河法皇から源義仲討伐を命じられた源頼朝は、弟の源範頼・源義経の大軍を派兵した。宇治川の戦いで敗れた源義仲(木曾義仲)は後白河法皇を幽閉、しかし源義経は源義仲軍を侵攻し、後白河法皇を救出した。敗北した源義仲は今井兼平らわずかの兵を連れて根拠地のある北陸への逃走。

ところが近江国粟津に着いた処、長年信濃国の支配を巡る争いで因縁があった一条忠頼率いる甲斐源氏軍と遭遇、源義仲は「最期の戦に女を連れていたと言われてるのは口惜しい」と言い巴御前に逃げる様に諭すが巴御前は「最期の戦して見せ奉らん」と言い、奮戦し東方に落ちたのであった。いわゆる「巴御前勇戦」。その後源義仲は自害の場所を求めて粟津の松原に踏み込んだ処、馬の脚が深田に取られて動けなくなり、石田次郎為久の放った矢が兜に突き刺さり、敢え無く討ち死にしました。これを見た今井兼平も自害して、木曾源氏勢力は崩壊した。



彫物画廊 feat. 大苗代 #.28 (彫物画廊通算 #.356)
   彫物題材:巴御前勇戦 / 小屋根幕板左面