- 彫物研究 feat. 本能寺の変 -
- 2014/3/16 -






各町やぐらの彫物をマニアックに研究する「彫物研究」、今回は「本能寺の変」を御紹介します。



本能寺の変(天正10年/1582年6月2日・明智光秀 vs 織田信長)

備中高松城を囲む羽柴秀吉から、救援を御求める知らせが織田信長に届いた。すると織田信長は明智光秀に、羽柴秀吉の救援を命じた。つまりは羽柴秀吉の指揮下に入れとの事だった。しかし明智光秀は自分が織田信長の寵を失いつつある事を知った。このままでは佐久間信盛らの様に、無能者の烙印を押されて、切り捨てられるのではないかと。

「先じて信長を倒せば、自分が天下の主になれる」 織田信長は、備中高松城攻めの総仕上げとして、毛利との一大決戦を目論む中国遠征のために、わずかな手勢を連れて京都・本能寺に入っていた。そこを襲えば織田信長を討ち取ることができると。

天正10年6月1日の夕刻、明智光秀は13,000の兵を率いて亀山城を出陣。2日未明、京都桂川に達した時、「敵は、本能寺にあり」と、全軍に下知したのである。

本能寺に入った織田信長の供廻りはわずか150人。早起きの織田信長が顔を洗ってると、時ならぬ喊声である。やがて銃声が聞こえてくる。小姓の森欄丸が「明智光秀の謀叛にござります」と告げた時、織田信長はただ一言、「是非に及ばず」と叫んだ。

織田信長は客殿の広縁に出ると、自ら弓をとって群がる敵と応戦した。弓の弦が切れると、槍をふるって戦った。が、大勢に無勢である。見方はしだいに討たれ、そのうち織田信長も、肘に槍傷をうけた。銃弾が腕に当たったとも言う。「こはや、これまで」。奥の間に退いた織田信長は、本殿に火をかけ、その炎の中で、腹をかき切った。49歳の強烈なる人生であった。 (彫物題材より引用)



戦国合戦の中でも有名な「本能寺の変」、当然やぐらの彫物にも題材として使われますが彫師によってその雰囲気が全く異なります。そこで今回、「彫物研究」と題して各町やぐらの「本能寺の変」と整理してみました。




▲ 下出(大屋根幕板・脇障子右面)。



▲ 下出(大屋根幕板・脇障子右面)。



▲ 男里南組(大屋根幕板・脇障子右面)。



▲ 男里南組(大屋根幕板・脇障子右面)。



▲ 男里南組(大屋根幕板・脇障子右面)。



▲ 大西町(大屋根桝合左面)。



▲ 和泉鳥取(大屋根欄間後面)。



▲ 和泉鳥取(大屋根欄間後面)。



▲ 男里南組(大屋根桝合正面)。



ちなみに余談ですが、本能寺の変の後、豊臣秀吉の命によって京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522に移転され現在に至ります。