- 彫物研究 feat. 大坂之陣四百年 -
- 2015/12/20 -






慶長19年/1614年12月の大坂冬の陣、そして慶長20年/1615年5月7日の大坂夏の陣を総称して「大坂の陣」と呼ばれています。そして今年が大坂の陣からちょうど400年の節目の年に当たります。そこで今回、「地車研究」と題してやぐらに宿る大坂の陣の彫物を御紹介します。この企画、年初より企画していたのですが何故か延び延びになってしまい今末の今頃やっと陽の目を浴びた企画です。その前にまずは大坂の陣について。



大坂の陣(慶長20年/1615年5月7日・徳川家康 vs 豊臣秀頼)

徳川家康は豊臣秀頼に大地震で倒れた京都の方広寺を立て直させた際、その鐘に貼り付けた文字に「国家安康」とあったのを家康の名を二つに切って呪うのだと言いがかりを付けて豊臣氏を攻めました。いわゆる方広寺鐘銘事件です。

この事件をきっかけに慶長19年/1614年12月、大坂冬の陣が勃発、双方激しい戦の末に和議を結び、大坂城の外堀を埋める約束であったが外堀だけでなく内堀までわざと埋めてしまい、大坂城は裸同然になりました。いわゆる「大坂冬の陣」です。

慶長20年/1615年5月7日、二度目の戦が勃発。いわゆる「大坂夏の陣」である。裸同然となった大坂城は同日の深夜に陥落、豊臣秀頼は淀殿らとともに自害、豊臣家は滅亡した。



大坂冬の陣(慶長19年/1614年12月)


▲ 陸宮本やぐら / 小屋根幕板右面



▲ 男里南組やぐら / 小屋根幕板右面



▲ 男里南組やぐら / 小屋根幕板左面



▲ 和泉鳥取やぐら / 大屋根板板勾欄正面左



▲ 和泉鳥取やぐら / 大屋根板板勾欄正面右



大坂夏の陣(慶長20年/1615年5月7日)


大苗代やぐら / 大屋根幕板左面



▲ 岡田北組やぐら / 小屋根幕板右面



▲ 岡田北組やぐら / 小屋根幕板左面



▲ 下出やぐら / 大屋根欄干幕板正面左



▲ 下出やぐら / 大屋根欄干幕板正面右



▲ 陸宮本やぐら / 小屋根幕板左面



▲ 男里南組やぐら / 小屋根板勾欄左面



▲ 大西町やぐら / 小屋根幕板右面



▲ 大西町やぐら / 小屋根幕板左面



▲ 和泉鳥取やぐら / 大屋根板勾欄右面