- 御神輿学 feat. いにしえの波太神社の御神輿 -
- 2013/7/7 -






前前回は現在の波太神社の御神輿と題して「御神輿学」を御紹介しましたが今回は「いにしえの波太神社の御神輿」を調べてみようと思います。いにしえ、つまり昔の御神輿の内容なのでほとんど文献等も残されてなく、限られた情報の中で私の推測等も混じってる事を御了承下さい。

さて阪南町史には次の通り、御神輿についての記述が掲載されてます。「和泉地方における山手方面の神社の祭礼にみられるように波太神社の2月の初午の日の祭礼にもかつては神輿の浜渡御(神輿の浜下り)がみられたようである。神輿は3台、うち1台は本神輿、2台は暴れ神輿で順路は石田の波太神社→桑畑(奥之宮の所在地)→山を越え→貝掛の指出森神社、玉津浦で甲胄姿の武者の出迎え→波有手(鳥取)の踏抜神社(戎さん)→尾崎の海老野(ここで潮をかく)→三本松の御旅所(休憩所)→石田の波太神社へ還御という順路となっていた(阪南町史・上巻p.505)」。




(上記画像をクリックすると、拡大画像になります)



御存知の通り、波太神社は角凝命(波太宮)と指出森神社の祭神であった応神天皇(八幡宮)が合祀した神社であります。年に一度、応神天皇がかつて鎮座していた指出森神社へ戻ると言う意味で、御神輿渡御が行われていたのではないかと推測されます。玉津浦で甲胄(カッチュウ)姿の武者の出迎えとありますが、甲胄姿の武者が変化し、今で言う天狗のおめんを被った方が先導する形に変わったのではないかと推測されます。この推測通りならば、現在でも貝掛のみが御神輿渡御を行わない理由と通じるからです。まぁ〜、あくまでも推測の範囲ですが…。


▲ 波太神社。



▲ 指出森神社。



前述の阪南町史の地名を見てみると、桑畑はかつて波太神社が鎮座していた場所、玉津浦・波有手の踏抜神社は不明、海老野は現在でも御神輿の御旅所として御神輿渡御でやって来ます。三本松はバス停で黒田内にあるのでその場所を示すと思われ、色々謂れがある場所を経由して御神輿渡御が行われていた様です。

最初に触れましたが、いにしえの事なのであくまでも推測が多々あります点を御了承下さいませ。波太神社の御神輿シリーズは以上にてネタ切れですが、また機会があれば茅渟神社(樽井地区)や男神社(男里地区)、船守神社(淡輪地区)の御神輿も研究してみたいと思います。



最後に、葛{本卯之助商店 代表取締役会長 7代目宮本卯之助氏は「神輿大全」の中で、「神輿は神の乗り物である。普段は鎮守の杜の深い緑の奥に鎮座する神が、祭りのその時だけ神輿にお乗りになり、町の隅々を巡り人々の近くまで降りて来る」と記してます。やぐらやだんじりも大事ですが、神事(神賑)の中ではやはり御神輿の方が重要なんだなぁって改めて思いました。