- 地車研究 feat. 波太神社の祭神 -
- 2010/8/22 -






阪南市全20町中、箱作東と箱作西を除く18町ものやぐらが宮入りする波太神社。その波神社は「波太宮」と「八幡宮」の2社が合祀した神社です。いよいよ祭りまで約2ケ月、今一度改めて波太神社について学んでみようと思います。

そもそも波太神社は、鳥取氏の祖神である角凝命を桑畑に祭ったことから、「波太」の名がついたものと思われます。正確な創建の年代はわかりませんが、927年に完成した「延喜式」と言う当時の政治に関する規律を記した書物には、鳥取郷の総社として記載がみられることから、その当時には既に創建されていたようです。なお、桑畑から現在の地に移されたのは、いつの頃なのかはわかっていません。

波太神社は神社形式からいうと「三間社流れ造り」といわれるもので、平成5年12月9日に国の重要文化財に指定されました。





波太神社の紋でしばしば用いられる「九枚笹」と「左三ツ巴」、前者は「波太宮」の紋であり後者は「八幡宮」の紋であります。ではこの「八幡宮」とは一体? と思われるかと思いますが「八幡宮」は貝掛の指出森神社が波太神社へ合祀されたもの。つまり、指出森神社には祭神が祭られてなく、波太神社に祭られているのです。ちなみにこの合祀の時期は、永徳年中(1381年-1383年/南北朝時代)との事です。





さて波太神社拝殿。上記写真の通り拝殿は大きく分けて本殿と南殿に分ける事ができます。では本殿、南殿それぞれを改めて学んでみようと思います。





まずは本殿。本殿には前述の通り、「波太宮」と「八幡宮」が祭られており、三つの間があり右手に「波太宮」の祭神である角凝命、左手に「八幡宮」祭神である応神天皇が祭られ、中央に設けられているのは「相の間」で、二柱の神を合わせて祀る場合その間に設ける間のことです。このように三つの間が設けられているものを「三間社」といいます。





続いて南殿。南殿には「末社三神社」として左から武内宿禰,神功皇后,天湯河板擧命が祭られており、拝殿にも左から「若宮」「王太神」「今宮」と記されております。





つまり、今までの「指出森神社の祭神は南殿に祭られている → 貝掛のみ南殿へも宮入りする」と言う固定観念は間違いだったのです。逆に言えば貝掛を除く17町は、「本殿へ宮入りする → 波太宮&八幡宮に宮入りする → 指出森神社の祭神:応神天皇にも宮入りする」って流れなんです。





今回御紹介した波太神社の祭神、もっともっと奥が深いかと思います。例えば、なぜ貝掛のみが御神輿担当に当たらないのか? 昔昔の旧暦2月の初丑には貝掛の指出森神社へ御神輿の渡御があり、その際に貝掛から甲冑姿の武者が出迎える慣わしがあったとの言い伝え? 色んな疑問がさらに湧き出てきました。

ともあれ今年の祭り、波太神社宮入りの際には今回研究した内容を改めて思い出しながら、宮入りして頂ければと思います。