萬歳記に依れば、寶龜年間(西暦770年~780年)吉見小佐治の來住して、此の地を開發して、一村を爲したるとき、其の祖春日大明神を勸請せしものなりという。
明治5年村社に列し、同40年11月10日字稻荷の村社稲荷神社(保食神)、字南出の同巖島神社(市杵島姫命)、字毘沙門の無格社多聞天神社(大山衹命)、字東出の同日向神社(太田命)、字北濱出の同事代主神社(八重事代主命)、字大將軍山の同大將軍神社(磐長姫命)及び大字嘉祥寺字村端の同八坂神社(素戔嗚命)を合祀し、同42年10月神餞幣帛料供進社に指定せらる。往時にありては北方田尻川の南岸より、舊加太街道の東に沿いて南に亘れる壱萬七千餘坪の境内なりしが、現在は境内外を通じて約五千坪の社地となる。末社に若宮神社あり。氏地は本地一圓。
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