さしでもりじんじゃ
指出森神社






左三ツ巴
【御祭神】
・誉田別命(第十五代応神天皇) (ほむだわけのみこと)
【末社】
・谷神社  御祭神:国常立命 (くにのとこたちのみこと)
・厳島神社 御祭神:市杵嶋比売命 (いちきしまひめのみこと)

・所在地 阪南市貝掛1462
・例祭 10月第二日・第三月曜日
・宮入やぐら 貝掛



一千八百年前 神功皇后(第十四代仲哀天皇の皇后)が、仲哀天皇と共に九州地方の部族 熊襲(くまそ)を征討の途中、筑前(福岡市)香椎宮にて仲哀天皇が崩御された後、神功皇后が代わって指揮をとり熊襲を征討し次に船舶を集め、新羅を攻めるが、新羅王 戦わずして降伏皇后帰還し、筑紫で王子応神天皇を御出産の後、海路難波の地に赴く際に御船を玉津島(貝掛の浦)に繋ぎ上陸あらせられ、武内宿禰が王子応神天皇を懐にして逍遥し給いし時この地に渾々と湧き出づる泉あり王子を湯浴みせし給えしかば応神天皇産湯の淵と称しその聖蹟今に在す(御本殿うしろ) その由緒により応神天皇を奉祠し八幡宮と称せり。

しかし南北朝(六百七十年前)の時に鳥取氏が南朝に加わったため、波太神社と共に天授年間 戦火のため焦土化したが、桑畑の奥宮に難を逃れる。
兵火治まりて後、南山の下に波太神社の社殿を造営し八幡宮の祭神を相殿に奉祀し、その地に祠を建てて応神天皇を祀ったのが当社である。
もとは貝掛神社と称し明治四〇年十一月十一日に今の指出森神社に改められ明治四十三年八月二十五日大字舞字海の谷の村社、谷神社(御祭神 国常立命)を合祀した。

貝掛はもともと谷神社を祀る金剛寺村、舞村と指出森神社を祀る貝掛村との三ヶ村から成り立っていました。
しかし金剛寺村は、江戸時代の終わり頃に消滅してしまい、舞村は明治期に貝掛村に合併され、消滅してしまいました。




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