週変わり!やぐらの写真集  

最新更新日:平成16年6月5日
毎週土曜日に更新する予定です。



週変わり!やぐらの写真集 更新通算第200回記念
〜 日本国重要文化財・波太神社 〜



1.波太神社入口

波太神社について語る前にまずは鳥取の由来について、鳥取には南海電鉄鳥取ノ荘駅があり、駅名から解る様に昔は律令制度が敷かれており、荘園=鳥取ノ荘となった。この地名について初出の日本書記には「垂仁天皇の大皇太子誉津別王は30歳になってもモノを言わなかった。垂仁23年10月、鵠(うぐい、白鳥の事)が空を飛ぶのを見て、皇子は初めて「これ何者ぞ?」と言った。これを聞いて天皇は大いに喜び、その鳥を獲えるように臣下に命じ、天湯河板挙と言う人が臣が必ず獲えましょうと言い、遠く出雲の国まで行ってこの鳥を捕え、そのために皇子はモノを言う様になり、天皇は天湯河板挙に鳥取造の姓を与え賞し、鳥取部と定めた」とある。同様の伝承は古事記にも見られる。その際に鳥取郷一円の氏神で鳥取部の祖となった天湯河板挙はその功績によって鳥取造と土地鳥取郷を賜った時に桑畑村の池に祖神角凝命をまつったのが始まりで「波太」とは畑村(現在の桑畑)の地名から起こったとされています。以前は波太神社の事を鳥取大宮または波太八幡宮と呼ばれていました。鳥取大宮は鳥取郷の総社である事により、また波太八幡宮の呼称は貝掛指出森神社の祭神品蛇別命を相殿に祀る事から生じたと言われています。現在の石田の地に貝掛の指出森神社の八幡社と合祀した時期については「鳥取県大宮八幡宮来由記」には貞観元年(859年)、「波太宮八幡来由記」では永徳年中(1381年〜1384年)の2説あります。現在の波太神社の住所は大阪府阪南市石田167番地にあり、波太神社は波太宮(角凝命) 八幡宮(応神天皇)を奉祀する延喜式の古社であり、鳥居の手前に踊り場があり、その鳥居をくぐって左に村内各社を合祀した鳥取神社(鳥取戎神社)、右に市杵島神社があります。そこからしばらくは参道がまっすぐに続き、蓮池にそそぐ小さな川に太鼓橋が架かっており、それをこえると石の階段があります。その正面右階上に伽蓋式拝殿、その奥に波太・八幡の両神をまつる本社殿、南側に神功皇后、武内宿彌・天湯河板挙命の3神をまつる南殿、東社務所の隣に舞拝殿があります。この波太神社は延喜式神名帳の、日根郡十座中にあり「和泉国神名帳」にも日根郡19社の中に正四位下波太社とあって、古代からの由緒ある神社であることが窺がえる。何回もの兵火によって焼失しましたが、慶長年間に豊臣秀頼が再建し、寛永15年(1638年)に本格的に建造され今日に至っています。また明治維新後の神仏分離によって神光寺が廃寺となり明治5年に郷社、明治40年1月に神撰幣帛料供進社になりました。本殿-春日造,桁行4間,梁行2間半,9坪,檜皮葺。また波太神社での往古の祭礼は2月と6月の初午の日に行われたので午祭と称し、2月の初午には貝掛の指出森神社へ御神輿の渡御があった。これには貝掛から甲胄姿の武者が出迎えると言う特色がありました。また6月の初午は各地区のやぐらが曳行され、俗に「石田の血祭り」と言われていた。この6月の初午が現在の10月の秋祭りのはじまりである。祭りの初日には各地区のやぐらは鳥居の手前の踊り場で3台〜5台で数時間曳行、最後に鳥居をくぐり参道を一気に走り抜け石の階段を駆け登り、本社殿に御参りします。


2.鳥居


3.参道


4.狛犬・左


5.狛犬・右


6.全景


7.全景


8.拝殿の屋根


9.拝殿の階段


10.伽藍式拝殿


11.拝殿の左側


12.拝殿の正面


13.拝殿の右側


14.三間社流れ造りの屋根


15.本殿


16.本殿


17.本殿


18.南殿


19.末社三神社


20.末社三神社・若宮


21.末社三神社・王太神


22.末社三神社


23.慶長石灯籠


24.御神輿小屋


25.御神輿


26.御神輿


27.御神輿


28.舞拝殿(神楽殿)


29.休憩所






◆ 波太神社へ宮入するやぐら・平成15年10月12日日曜日 ◆


30.尾崎宮本町のやぐら


31.新町のやぐら


32.貝掛のやぐら


33.石田宮本のやぐら


34.和泉鳥取のやぐら

35.自然田飛賀志組のやぐら