● やぐら、よもやま話・第14話

おっしゃんしゃんについて。

情報提供者:さざんさん、まささん
更新:平成16年12月11日土曜日


先日新町のMさんから「お釈迦さんの詳しい情報ある?」と聞かれ、僕は知らなかったので掲示板へ書き込んだ処、さざんさん、まささんから書き込みを頂きました。とても詳しかったので「やぐら、よもやま話」で御紹介したいと思います。



◆ さざんさんの書き込み。

納庫行事『おっしゃんしゃん』

『寛永の直訴』
寛永17年(1640年)岡部宜勝、摂州高槻から和泉岸和田へ入場に際し、日根郡、南群、108カ村の庄屋を代表して沼村の川崎久左衛門ら数名が、欄干橋で年貢減石の直訴を行った。かねてから年貢減石のことを協議中であり、農民らは城主交代時にこの事を決行することにしたのだ。直訴は無論死罪であり、その累は一族へも及ぶという掟であった。
その減石の直訴は成功した。
しかし、川崎久左衛門はじめ、庄屋の者は打首にされ、首を晒され、津田川へ流された。その首を村人達は拾い持ち帰り、庄屋への謝恩、恩謝を心から供養をして、「お庄屋さんの髑髏(しゃれこうべ)おっしゃんしゃんのしゃんころべ」と、ひそかに喜びあった。
されば供養の一端のもと五穀豊穣と寿ぐ、だんぢり祭りの終日にお庄屋さんへの恩返しへの念を謝し喜偲ぶとともに、殿様へも御赦、謝恩したのだ。

現在、納庫の際に『おっしゃんしゃん』の音頭をとるのは、岸和田では数町のみ。貝塚、熊取でも数町確認されている。とりわけ泉南、阪南の祭礼ではこの音頭をとられることが多く、阪南市では農家町のおおよそ半数はこの音頭がとられることを確認されている。

この行事、通常は「オッシャンシャンのシャンコロべ」と唱和して手拍子だけで終わる。これに反して岸和田沼町では笛、鉦、太鼓の鳴り物を入れて、その上円陣を作ってその中の若い衆二人づつが技を競い合うは両方共負けるなと大声で応援をする。まさに豪勢である。

この「おっしゃんしゃん」の音頭は各町により少しずつ、歌詞、曲調が変わっている。たった数メートルしか違わぬ隣の町でまったく違う「おっしゃんしゃん」が歌われているなど、趣深いものである。

ちなみにうちの町は「おっしゃか、しゃんのしゃんとこせ」
隣の町は「おっしゃかしゃんのーしゃんころべ」




◆ まささんの書き込み。

自町(岸和田市上町) 地車誌より
さざんさんのご意見より追加です。
祭礼終了時、地車入庫のあと曳行責任者の音頭で「オッシャカシャンノシャンコロベ」
を三唱するのが習わしとなっている。
この意味は、寛永17年。岸和田108ヶ村領民による岡部宜勝への年貢軽滅の直訴、いわゆる「菊右衛門の強訴」が由来となっているという。
岸和田藩の本高は、五万石弱に過ぎなかったが寛永8年「竿不入」の一万石増(実測によらない書面上の石高)をもって六万石とされていたため、高率の年貢に苦しんだ百姓たちが藩主交代を機に直訴に及んだものである。
この効あってか、岸和田藩年貢はこの年から七年間は本高石五万石を基準にすると言う臨時処置がとられ、やがて分封により五万三千石と表高も減らされた。
ただし、定めにより沼村川崎久右衛門をはじめとする八人の代官庄屋は津田川畔の刑場で断首となり、代官庄屋制度も廃止された。
百姓達は、この時の庄屋たちへの恩を忘れず、その感謝の言葉として「御庄屋様乃謝恩首(オショウヤサンノシャオンコウベ)と言い続けてきたのが今に伝わっていると言われてる。
で〜す。^^尚 うちでは 昔は腕相撲や綱引きしてました。
主に青年団対若頭会です。当時30人組は有りませんでした。今から20年ほど前ですね。「おっしゃかしゃんのしゃんころべ」は、今も伝承中です。