- 管理人のおもひで日記 -
- 1974/10/26 〜 1995/10/11 -



管理人のおもひで日記 #.1



管理人のおもひで日記・其の壱 (幼少期)

本日、「阪南市の祭・やぐら 公開10周年」を迎えたのを記念し、改めて管理人自身の35年間の祭禮を振り返る「管理人のおもひで日記」を連載して行こうと思います。まぁ世間で言う「自分史」。管理人が記憶する範囲をつらつらと書いて行こうと思います。

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昭和49年、大阪府泉南郡阪南町貝掛に産まれた管理人。幼い頃からやぐらが好きでした。当時の我が貝掛は正面右に日章旗(日の丸)、正面左に旭日旗(キョクジツキ)を掲げ、芯棒と大屋根をロープで固定し駒はとりもち。よくとりもちをズボンに付けてしまい、母に怒られた記憶があります。休憩ではポリバケツにカルピスがどっさり入ってて、尺で廻し飲み。アテは御菓子や梨。梨は梨でも発泡スチロールに氷を入れて、その中にジュースや梨を冷やしてて、当然梨は皮ごとまるかじり。今じゃ衛生面で難癖言われそうな光景でも当時はまかり通ってて、別に不衛生から病気になったと言う話も聞いた事がありません。

当時、やぐらは我が貝掛と箱作東,箱作西しか見た事がなくて、箱作東や箱作西は提燈が「赤地に白文字」「青本幕」「正面に御神燈の提燈」だったのに対し、貝掛のみ「白地に赤文字」「赤本幕」。幼心に、何だか我が貝掛だけが特別に見えてました。

曳行に関しては、10月10日(本宮)の午前中に箱作東の浜へ行き、夜は菅原神社〜加茂神社へ宮入後、箱作駅前でまっせーしてました。10月11日(後宮)は午前中何してたかあまり記憶してませんが、夜は指出森神社へ宮入後、箱作駅前でまっせー。幼少期の管理人は、箱作駅前で盛り上がってる最中、母に手を引かれて後ろ髪を引かれながら帰宅した記憶があります。ちなみに、当時は今みたいに国道26号線を曳行する訳じゃなく、真っ暗な貝掛中学校下をとぼとぼ曳いてました。

さて昭和58年/1983年、管理人が小学校3年生の時、箱作東のやぐらが大修復を行い、非常に綺麗なやぐらに生まれ変わりました。前述の通り、我が貝掛だけ特別な存在に思ってた管理人には驚きの一言。突如、箱作東のファンになりました。友人の家には「大修復記念」と題して、大き目の姿見の写真が額縁に入れられて飾ってた記憶があります。











管理人のおもひで日記 #.2



管理人のおもひで日記・其の弐 (昭和60年/1985年)

昭和60年/1985年、管理人が小学校5年生の年、この年は我が貝掛にとって非常に重要な一年となりました。貝掛のやぐらの大修復が行われた年なんです。春先から毎日やぐら部屋が開いており、小学校の帰り道だったので毎日の様にやぐら部屋を覗いてた記憶があります。とある日、いつも通りやぐら部屋を覗くと、T建設の棟梁が「君ら、小学校で図工習ってるやろ! ちょっと彫物に色塗ってくれへん?」と言われ、でも「間違えたら、拳骨一発やで!」と付け加えられて泣く泣く丁重にお断りさせて頂きました。今となっては、拳骨覚悟で塗っておけば、後世まで自慢できるのに…、と後悔しております。

で、こうやって出来たやぐら、9月中旬に試験曳きを実施。その日は朝から前島珠算塾で検定試験があって、検定試験を急いで終えて午後からの試験曳きへ参加した記憶があります。曳いたのは、村中一周だったかな??? 試験曳き、その試験曳き以上に思い出深いのが法被。当初、法被の回覧版がまわって来た際、「いらんわ!」と言ったのに試験曳きでみんなが着てるのを見て急に欲しくなって「やっぱり欲しい」と我儘を…。その我儘に母親は村中を聞きまわって買ってきてくれたのを記憶してます。今となってみれば、ホンマ勝手な我儘なのに、その我儘に付き合ってきれて感謝の念が耐えません。

さてこの年の10月10日(木)、我が貝掛が昭和30年代以来数十年ぶりに波太神社への宮入を再開したのです。朝から父親に「波太神社では曳いたらアカン!」と言われた記憶があって、何故なんだろうかと不思議でした。正直、波太神社でのまっせーしてる様子なんで露知らず…。だからこんなに危険な、こんなに興奮する場とは知らなかったのです。かすかな記憶ですが、我が貝掛が宮入したのがちょうど正午前後の時間。当時は「貝掛地区」との特別の扱いで、一町だけでまっせーしてました。まぁ…、あんまり記憶してませんが…。

波太神社宮入後の夜、例年通り菅原神社・加茂神社へ宮入の後は箱作駅前でのまっせー。翌日の夜は指出森神社へ宮入の後は箱作駅前でのまっせー。その燈入れ曳行でも新たな驚きが…。なっ、なんと、提燈の明かりが点滅するのです。例えるならパチンコ屋みたいなリレー点等が! これには非常に驚いた記憶があります。

以上が昭和60年の曳行に関する記憶。次いでやぐらに関する記憶。今まで正面右に日章旗(日の丸)、正面左に旭日旗(キョクジツキ)を掲げてた貝掛のやぐら。芯棒と大屋根をロープで結び雨になれば提燈一個一個にビニールを被せ、本宮朝一には草竹商店過ぎた処でフォークリフトが待機してて、梶台を上げて駒に"とりもち"をかましてた時代。それが一気に近代化され、正面には「やぐら保存会」の提燈が掲げられ、芯棒と大屋根のロープは無く、至る所には金色の装飾が。その金色の装飾、やぐら曳いてる時に「さびるから触ったらアカン!」と言われた記憶があり、気の小さな管理人は絶対に触れないモノだと思ってました。今じゃ酔った勢いで、ベタベタと管理人の指紋付けまくるのにネ!











管理人のおもひで日記 #.3



管理人のおもひで日記・其の参 (昭和61年/1986年)

昭和61年/1986年、管理人が小学校6年生の年、何故かこの年は祭りへ行くのが億劫でした。前年度、法被を買ってもらった事を悔いていました。何故なら、法被がある故に祭りへ参加しなくっちゃいけないのです。未だに何故億劫だったのか? 不明ですが億劫だった記憶だけは鮮明になります。

さて、億劫ながらも祭りへ参加したら、結構楽しんでました。この年、我が貝掛は波太神社宮一番で、朝から提燈に燈を入れて波太神社へ向かった記憶があります。提燈は夜にしか燈を入れないモノだと勝手に思ってた管理人、故に朝からの燈入れ曳行がこの年の一番の想い出です。

ちなみにこの年の寄付の記念品が豆絞り(下写真参照)、今まで子供は箱作東は黄色、箱作西は青色のハチマキをしてましたが我が貝掛は何もありませんでした。でも、遂に我が貝掛もハチマキならぬ豆絞りが登場したのです。正面には赤丸に"貝"の文字。この豆絞りを嬉しがって巻いてた記憶があります。ココでB型管理人のこだわり! 絶対に正面に"貝"の文字が来る様に巻いてました! 今となって当時の写真を見てみれば、恥ずかしい限りですが当時はこれが格好イイと思ってたのでしょうねぇ〜。

この年は億劫な気分で祭りへ参加したので、これ以上の想い出は記憶していません。

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▲ 前述の貝掛の豆絞り。











管理人のおもひで日記 #.4



管理人のおもひで日記・其の四 (昭和62年/1987年)

昭和62年/1987年、管理人が貝掛中学校1年生の年、昨年の祭りに対する億劫度とは正反対で、非常に楽しみにしてた祭りでした。ただ…、今じゃ考えられませんが当時、中学生頃になればいわゆる「エエ処どり」と言うか、場面場面だけ出没する祭りが主流で、例えば波太神社へ向かう道中は保存会に任せて馬場先へ入る寸前に集合、宮上がりしたら退散し電車に乗って箱作駅へ向かう習慣がありました。ただ時代に乗り遅れ気味な管理人、ちゃんと村中から梶台持って波太神社へ向かい、馬場先では梶台じゃなくて綱持って曳いてました。その頃から不器用だったのかな? と改めて思います。

さてこの年、我が貝掛は波太神社宮入が一番最後で祭り前から「夜やったら、波太神社への宮入り無しや!」とか言う巷の声が聞こえてきましたが、ちゃんと宮入させて頂きました。管理人の推測の範囲では恐らく、18時から18時30分だったと思いますが、当時の写真を見る限りでは空は真っ暗で燈入れ曳行しています。波太神社宮入再開3年目で燈入れ曳行。昭和60年の初めて見る宮入り、昭和61年の朝一の燈入れ曳行、そして昭和62年の馬場先燈入れ曳行と全てが目新しく思えた祭りでした。ただこの年の本宮、時間の都合上、箱作駅前へ行けずに21時過ぎに帰町し、納庫した記憶があります。

さて後宮の夜、指出森神社〜菅原神社〜加茂神社〜箱作駅前と怒涛の如く、曳いた記憶があります。普通例年なら本宮の夜に菅原神社〜加茂神社〜箱作駅前、後宮の夜に指出森神社〜箱作駅前と言うのが慣例だったのですが、その慣例を打ち破る出来事と記憶しています。今となって考えれば、この年を最後にこの慣例が終わりを告げ、翌年以降の「宮当番」制度が発足した訳ですから非常に貴重な年だったと改めて思います。

で、後宮の箱作駅前終わって貝掛中学校下の暗い道を曳いてる道中、どう考えても中学生位の人間は僕だけで、他は保存会や小学生ばかりでちょっと恥ずかしかった記憶があります。管理人は中学生当時から背が高い方だったので、非常に目立ってた記憶があります。祭り終わってから母に「この年で、曳いてたらアカンで!」とまで言われたし…。











管理人のおもひで日記 #.5



管理人のおもひで日記・其の伍 (昭和63年/1988年)

昭和63年/1988年、管理人が貝掛中学校2年生の年、この年のキーワードはずばり「自粛」。岸和田だんじり祭が終わった直後の9月19日(月)、昭和天皇が吐血され世間は一気に自粛モードに突入。岸和田だんじり祭は自粛直前だったので何の影響もありませんでしたが、10月10日(月),11日(火)に行われる阪南市の祭りは自粛の影響をモロに受けました。実際、9月末に我が家に年番さんがやっと寄付を集めに来られました。やっとです。つまり、祭り自体が行われるか微妙な環境だったのです。ただ…、通称ぶんすけ前にアーチが設置され、自粛の中でも少しだけ華やかな話題となりました。

そしてこの年、箱作西はやぐらを新調しましたが、盛大にイベントを行う訳でもなく祭り前日の10月9日(日)、試験曳きを兼ねてところ曳きだけをしました。歴史の皮肉と言うか…。ちなみにこの日の管理人、2歳下のM君と一緒に加茂神社へ箱作西のやぐらを見に行き、餅投げで餅をひらって喜んでた記憶があります。

結局この年は波太神社への宮入は行わず、ところ曳きだけに終わりました。事後談で聞いた範囲では、自粛の中でも波太神社へ宮入を行った町があるそうですが、我が貝掛は世間の流れに沿うべく波太神社の宮入は行いませんでした。かと言って、波太神社へ宮入を行ってなかった昭和59年以前の様に箱作東の浜へ行く訳でもなく、ただ単にところ曳きだけをしました。唯一の目新しいネタと言えばこの年、関西空港への土砂運搬用に新道が完成し、この新道を経由してコスモ石油までやぐらを曳行した点位かな?

他には10日(月)の本宮の夕方、時間調整のために箱作東がいない菅原神社で休憩した点。今じゃ考えられない行動ですが、当時は何のトラブルもなく休憩させて頂きました。

さて11日(火)の後宮の日、箱作西やぐら新調を記念して加茂神社へのみ宮入しました。今までは指出森神社,菅原神社,加茂神社へ必ず宮入してたのですが、この年は自粛モード。でも、せっかく箱作西が新調したのだからと言う理由で唯一加茂神社へ宮入したのです。この前例が今の「宮当番」制度のゆえんなんです。で、加茂神社での知らんオッチャンの一言が忘れられません。「やっと三台、新しくなったなぁ」。確かに3台とも大修復を終えて綺麗なやぐらが加茂神社の境内に並んでました。

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そしてこの年から、管理人は毎年の祭りに関する記録を残す習性と言うか、本能が宿ってきました。この本能の集大成が、当サイトの情報源となってます。以下、昭和63年の貝掛やぐら曳行の記録です。

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貝掛やぐら曳行の記録
10月9日(日) / 試験曳き − 指出森神社 → (海手廻り) → アーチ前 → (山手廻り) → 指出森神社
10月10日(月) / 本宮 − 指出森神社 → (海手廻り) → アーチ前 → 貝掛団地 → (新道経由) → アーチ前 → (山手廻り) → 指出森神社 → (海手廻り) → アーチ前 → 菅原神社 → タカラブネ前(箱作東,箱作西と合流) → 箱作駅前(箱作東,箱作西と離散) → (海手廻り) → 指出森神社
10月11日(火) / 後宮 − 指出森神社 → (海手廻り) → アーチ前 → (海手廻り) → 指出森神社 → (海手廻り) → アーチ前 → (コスモ石油でUターン) → アーチ前 → 菅原神社前(箱作東と合流) → タカラブネ前(箱作西と合流) → 加茂神社 → 箱作駅前(箱作東,箱作西と離散) → (海手廻り) → 指出森神社

※ 海手廻り=C→D→A・A→D→C、山手廻り=A→B→C











管理人のおもひで日記 #.6



管理人のおもひで日記・其の六 (平成元年/1989年)

平成元年/1989年、管理人が貝掛中学校3年生の年、この年は受験生ながらやぐら曳いてました。前年度、「来年は受験生やから、やぐら曳かれへんわ!」って思ってたにも関わらず、祭り前から血が騒ぎ、祭り当日はちゃんと法被着てやぐら曳いてました。

さてこの年、前年度の「自粛モード」から一転、例年通りの秋祭りが運営され、我が貝掛も波太神社へ宮入りしました。管理人はこの年、初めて波太神社馬場先でやぐらを曳きました。この年のまっせーで、波太神社馬場先の興奮を身を持って覚えました。さてこの年のまっせー、当時我が貝掛は一台だけで曳いてましたが、馬場先で粘ってて、次の石田宮本,下出,黒田が馬場先へ入って来て一周か二周程度一緒に曳いて宮上がりした記憶があります。

そして下荘地区、箱作東が赤地に刺繍柄の本幕を新調し、これで三地区とも刺繍の本幕に変わりました。また前年度、「自粛モード」の影響で加茂神社のみへの宮入りでしたが、この年は菅原神社のみへの宮入りでした。今の「宮当番」制度の序章と言える行動かと思います。また後宮の日、久しぶりに箱作東の浜へ三地区のやぐらが揃いました。

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貝掛やぐら曳行の記録
10月9日(月) / 試験曳き − 指出森神社 → (海手廻り) → アーチ前 → (山手廻り) → 指出森神社 → (海手廻り) → アーチ前 → (海手廻り) → 指出森神社
10月10日(火) / 本宮 − 指出森神社 → コスモ石油上 → 体育館前 → 波太神社 → ロンドン前 → アーチ前 → タカラブネ前(箱作東,箱作西と合流) → 箱作駅前(箱作東,箱作西と離散) → (海手廻り) → 指出森神社
10月11日(水) / 後宮 − 指出森神社 → (海手廻り) → 下荘小学校前(箱作東,箱作西と合流) → 箱作東の浜(箱作東,箱作西と離散) → アーチ前 → 貝掛団地 → アーチ前 → 菅原神社(箱作東,箱作西と合流) → 万葉台下付近 → 箱作駅前(箱作東,箱作西と離散) → (海手廻り) → 指出森神社

※ 海手廻り=C→D→A・A→D→C、山手廻り=A→B→C











管理人のおもひで日記 #.7



管理人のおもひで日記・其の七 (平成2年/1990年)

平成2年/1990年、管理人がKW高校1年生の年、この年は貝掛若中制度の三役、28歳の「年番」、27歳の「準年番」、16歳の「当番」、その中の当番を仰せ付かりました。我が貝掛では幼少期から「年番・準年番・当番」制度を教え込まれ、幼少期はまだまだ先だと思ってましたが、アッと言う間に16歳になってました。確か8月頃、年番・準年番・当番による寄合があり、管理人よりひとまわり上の従兄弟(イトコ)に「大きくなったなぁ〜」って言われたのを覚えてます。隣に住んでても、ひとまわり上だったら全く会う事もなく、この人が従兄弟なんだって驚いたのを覚えてます。

さて、大阪府内の高校では祭りを理由に学校休んだら何らかのペナルティあると聞きますが、和歌山県内の高校へ通ってたので、逆に祭りへ行くと言ったら「地域貢献」みたいな感じで捉えられて、簡単に休ませてくれました。ただ…、10日(水・祝)にK大学附属高校統一テストと言うふざけたモノがあって、10日(水・祝)を欠席、11日(木)は泣く泣く登校した記憶があります。

祭り当日、当番として奔走した記憶しかありません。でもやぐら曳いてる時には一緒に曳いて、休憩に入ればハリや飲み物を運ぶ…。まぁやぐら曳けたしエエ祭りだったと思います。後宮終わってやぐら部屋へ納庫し、住民センターへ行って熱いうどん御馳走になって2時か3時頃に帰宅。学生ながら初めて「仕事」と言うか…、人様の御役に立てた行事でした。

あっ、肝心な事忘れてました。この年の後宮の夜、例年やぐらを国道通って帰ろうとする曳き手とそれを阻止する年番との間でイザコザがありますが、この年は国道を一気に駆けて行きました。前述の通り、当番を仰せ付かってた管理人ですが、一緒に国道曳いてました。今さらながらスンマセン。でもこの年を期に、国道通って帰るのが慣例になってしまいました。

で、順番が逆になりますが、平成元年の年末頃にやぐら部屋新築に伴い、やぐらを指出森神社境内にブルーシートを掛けて保存、平成2年9月に完成し同月30日(日)にやぐら部屋新築格納式が挙行されました。本来、単に格納式だけの予定でしたが14時頃だったかな? 突然我が家に鳴り物の音色が聞こえて来て、速攻ぶんすけ前へ行くとやぐらがしこってました。いわゆる「ぬすっと曳き」ですネ! これが我が貝掛の第一回目のぬすっと曳きだと思います。でも、冷静考えてみれば境内にブルーシートのみで放置とは! 今じゃ考えれません。しかもこの様な保存状態ゆえに大修復を終えた白いやぐらだったのに、若干色あせてしまいました。

さて、貝掛中学校区では貝掛,箱作東,箱作西関係者しかやぐら曳きませんが、KW高校では色んなやぐら・だんじりの曳き手が集いました。岸和田市・筋海町曳いてたS君、朝日町曳いてたS君。この朝日町のS君から朝日町やぐら新調入魂式の情報を得てましたが当時、今みたいに部外者が他町のやぐらの見学に行き難く、ちょっと羨ましかったです。今だったら、絶対に足運んでたでしょう。

こうやって無事終了した平成2年度祭禮。祭りの余韻にひたりながらそうこうしてると10月末頃に回覧が! なっ、なんと、天皇陛下御即位の礼をお祝いし、やぐらを曳くとの事。11月12日(月)を特別に祝日とし、天皇陛下御即位の礼が行われたのです。それをお祝いしたやぐら曳行。ただ、我が貝掛はところ曳きのみで、しかも昼休憩にH電器の祭りビデオ試写会が長時間にわたりあり、その時間を使って自然田や尾崎駅前等に自転車テクテクこいで写真撮影に行き、我が貝掛が曳く時間に戻ってくると言う強行スケジュールを組んで、やぐらを楽しませて頂きました。この日の写真が、僕が所有する下荘地区以外のやぐらの初めての写真となりました。上写真の通り、我が貝掛も懸魚の前に国旗を掲げてますが、他町も日章旗(日の丸)や旭日旗(キョクジツキ)を掲げ、華やかにお祝いしました。

追伸。後宮の納庫後、K君が「来年、市制施行を記念しパレード…云々」と話してました。既に平成3年10月1日、阪南町から阪南市へ市制施行する事が決まっており、それをお祝いする「やぐらパレード」が市役所内で企画されてて…。詳しくは「其の八」にて御紹介しようと思います。

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貝掛やぐら曳行の記録
9月30日(日) / やぐら部屋新築格納式 − 指出森神社 → (海手廻り) → アーチ前 → (海手廻り) → 指出森神社 → (海手廻り) → アーチ前 → (山手廻り) → 指出森神社
10月9日(火) / 試験曳き − 指出森神社 → (海手廻り) → アーチ前 → (山手廻り) → 指出森神社
10月10日(水) / 本宮 − 指出森神社 → (海手廻り) → 体育館前 → 波太神社 → ロンドン前 → アーチ前 → タカラブネ前(箱作東,箱作西と合流) → 箱作駅前(箱作東,箱作西と離散) → (海手廻り) → 指出森神社
10月11日(木) / 後宮 − 指出森神社 → (海手廻り) → アーチ前 → 下荘小学校前(箱作東,箱作西と合流) → 箱作東の浜 → 菅原神社 → (海手廻り) → 指出森神社 → (海手廻り) → タカラブネ前 → 箱作駅前(箱作東,箱作西と離散) → (国道26号線経由) → (村中一周) → 指出森神社
11月12日(月) / 天皇陛下御即位の礼に伴う記念曳行 − 指出森神社 → (海手廻り) → 貝掛団地 → (山手廻り) → 指出森神社 → (海手廻り) → アーチ前 → (山手廻り) → 指出森神社 → (海手廻り) → (新道経由) → (海手廻り) → 指出森神社

※ 海手廻り=C→D→A・A→D→C、山手廻り=A→B→C、村中一周=C→D→A→B→C











管理人のおもひで日記 #.8



管理人のおもひで日記・其の八 (平成3年/1991年)

平成3年/1991年、管理人がKW高校2年生の年、この年は阪南市のやぐらにとっ"碑"となる一年となりました。同年10月1日(火)阪南町から阪南市へ市制施行、それを記念し10月6日(日)に阪南市役所前に全19台(当時相生町は復活前)が集い、記念パレードが行われました。僕は朝から各町へ写真撮りに行って昼前に法被に着替えてやぐらを曳く。初めて箱作東,箱作西が国道26号線経由で指出森神社前へ登場、初めてマミー前以北へ進み、鳥取ノ荘駅前に下荘地区・西鳥取地区のやぐら6台が集い、市役所前に19台が集う。それだけでも興奮なのですが、開会式で初めて見る山中渓のやぐら、そして提燈はずして登場してきた同年新調の大西町。最初見た時は「だんじりやん!」と思った位です。その後のパレード、パレードは曳行コースが狭かった故に非常に渋滞気味のパレードでしたが、まぁ最大の目的である「全やぐらが集う」、これを達成できたのが一番の収穫じゃないかと思います。

さて祭り当日、前年度はK大学附属高校統一テストと言うふざけたモノがありましたが、この年はなくて後宮の日はズル休みさせて頂きました。で、この年は波太神社宮一番でしたが宮入を終えた昼前から生憎の天候となってきて、後宮までずっと雨模様の天候でした。故にあまりやぐらを曳かずにほとんどやぐら部屋に納庫してた記憶があります。

話がちょっと前後しますが昨年度、保存会が黒色の法被を新調しましたが本年度、同デザインで「若中」バージョンが登場しました。ただ…、残念ながら管理人はその法被を入手できず…。親父の保存会バージョンを着ようか悩みましたが、高校生が保存会法被着てちゃ難なんで、泣く泣く古い青法被を着て祭りへ参加しました。

余談ですが同年、我が家もVHSビデオデッキを購入し、はんなんとぴっくから発売されたビデオを購入しました。これが初めて購入した祭りのビデオかと思います。それと…、同年11月号の「広報はんなん」にて初めてやぐらの写真が大々的に掲載されました。

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貝掛やぐら曳行の記録
9月29日(月) / 試験曳き − 指出森神社 → (海手廻り) → アーチ前 → (海手廻り) → 指出森神社
10月6日(日) / 阪南市・市制施行記念やぐらパレード − 指出森神社(箱作東,箱作西と合流) → (海手廻り) → 貝掛公園付近 → 鳥取ノ荘駅前(西鳥取上組,榮組,波有手組と合流) → 新町・安田広場(新町と合流) → 阪南市役所前(全19台集い開会式) → パレードコース2周 → 大阪法務局尾崎出張所付近(箱作東,箱作西と離散) → 鳥取ノ荘駅前(西鳥取上組,榮組,波有手組としこる) → (海手廻り) → 指出森神社
10月10日(木) / 本宮 − 指出森神社 → (海手廻り) → 体育館前 → 波太神社 → ロンドン前 → アーチ前 → (山手廻り) → 指出森神社 → (海手廻り) → 菅原神社(箱作東と合流) → 箱作駅前(箱作西と合流・箱作東,箱作西と離散) → (海手廻り) → 指出森神社
10月11日(金) / 後宮 − 指出森神社 → (海手廻り) → 箱作駅前(箱作東,箱作西と合流) → 箱作東の浜 → (道中、箱作東,箱作西と離散) → (海手廻り) → 指出森神社 → (海手廻り) → (箱作駅前にて箱作東,箱作西と合流) → 加茂神社 → 箱作駅前(箱作東,箱作西と離散) → (国道26号線経由) → (村中一周) → 指出森神社

※注) 海手廻り=C→D→A・A→D→C、山手廻り=A→B→C、村中一周=C→D→A→B→C

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▲ 広報はんなんの表紙。


▲ やぐらパレードを紹介するページ。











管理人のおもひで日記 #.9



管理人のおもひで日記・其の九 (平成4年/1992年)

平成4年/1992年、管理人がKW高校3年生の年、この年も10月10日(土・祝)にK大学附属高校統一テストと言うふざけたモノがありましたが、当然ながら欠席。よくよく考えれば、高校3年間で祭り当日の3日間しか休んでなく、仮に祭りよりも学業を優先しておれば皆勤賞もらえたし、もっと学業に励み、もっとエエ学校に進んで、もっとエエ人生送れたのに…。反省、反省。

さて祭り当日、この年は某大学への推薦入学が内定してまして、祭りを心行くまで楽しませて頂きました。ただ…、推薦入学の内定段階だったので、あまりアホな事もできず…。そーゆー理由からこの年は、「撮影班」として奔走しました。当時、ワイドサイズの使い捨てカメラと言うモノが流行ってて、御多聞に漏れず管理人も購入し祭り当日に使わせて頂きました。この年、波太神社へ宮入りする前の山中渓を除く全18台(当時相生町は復活前)を撮影できました。

で、昨年度「若中」バージョンの黒法被を入手できませんでしたが今年、遂に入手! その法被を着て祭りへ参加させて頂きました。ただこの法被、結局はこの年だけしか着ませんでした。

本宮、我が貝掛は波太神社宮入りが一番最後で、ところ曳きはほとんど曳かずにカメラ片手に波太神社へ。波太神社では馬場先曳いて宮上がりを終え、やぐらと一緒に帰路に付く訳でもなく、鳥取ノ荘駅から箱作駅へ電車で移動し、貝掛の法被を着ながら箱作東のやぐらを曳いてました。今じゃあり得ない話ですが、当時は全然普通の曳き方なんです。

後宮、まぁ例年通りの祭りで箱作駅前から国道26号線経由で帰町しところ曳きしてると…、なっ! なんと! 箱作東が国道26号線から貝掛村中へやって来たとの情報が! 草竹商店付近で待ってると本当に箱作東のやぐらがやって来ました。実はこの年、箱作東・箱作西ともに青年團を発足させてたのです。箱作東は東若会って名前だったと思います。その青年團の勢いで来たみたいで、結局指出森神社で2台休憩。せっかく箱作東が来ててテンション高い中、僕よりもかなり年長の人から「ちょっとやぐら部屋来てや!」との命令が! 僕を呼んだ人が誰かは覚えてませんが、非常に恐怖を覚えました。で、やぐら部屋へ行ってみると、当番(16歳)終わった年から準年番(27歳)前の世代が集合してて、「貝掛も青年團作るぞ!」との話が! こうやって翌年、貝掛青年團が発足しました。

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貝掛やぐら曳行の記録
9月27日(日) / 試験曳き − 指出森神社 → (海手廻り) → アーチ前 → (山手廻り) → 指出森神社
10月9日(金) / 試験曳き − 指出森神社 → (海手廻り) → アーチ前 → (山手廻り) → 指出森神社
10月10日(土) / 本宮 − 指出森神社 → (海手廻り) → アーチ前 → 貝掛団地 → (山手廻り) → 指出森神社 → (海手廻り) → 体育館前 → 波太神社 → (海手廻り) → 指出森神社
10月11日(日) / 後宮 − 指出森神社 → (海手廻り) → 箱作駅前(箱作東,箱作西と合流) → 箱作東の浜 → 下荘漁港(箱作東,箱作西と離散) → (海手廻り) → 指出森神社 → (海手廻り) → アーチ前 → 菅原神社(箱作駅前にて箱作東,箱作西と合流) → 箱作駅前(箱作東,箱作西と離散) → (国道26号線経由) → 草竹商店(八百屋)付近(箱作駅前にて箱作東と合流) → 指出森神社(箱作東と離散)

※注) 海手廻り=C→D→A・A→D→C、山手廻り=A→B→C、村中一周=C→D→A→B→C











管理人のおもひで日記 #.10



管理人のおもひで日記・其の拾 (平成5年/1993年)

平成5年/1993年、管理人がK大学1回生の年、そして貝掛青年團発足の年でもあります。初代團長はY.T.さん、青年團発足に当たって自治会との折衝、團則の制定、寄合の開催、法被の新調等色々奔走されたかと思います。その苦労は僕なんかには到底解りませんが…。でも、そのY.T.さんも今じゃ祭りにも顔を出されませんが…。

さて、1月に皇太子殿下と小和田雅子様の御成婚が発表され、6月9日(水)に皇太子殿下御成婚に伴う記念曳行が行われました。貝掛青年團の初披露の場でもありました。半分白色・半分黒色の何とも言えぬ中途半端な法被を着ての参加、でも箱作東,箱作西に次いで我が貝掛にも青年團が出来た事が非常に嬉しい限りでした。その日は朝から指出森神社〜菅原神社〜加茂神社へ3台のやぐらが宮入り、一応燈入れ曳行の準備もしてた様ですが、夕刻には納庫しました。

10月9日(土)試験曳き、ところ曳きを1周した後、どうやら青年團で前夜祭を行ったと記録してますが、その記憶は全くなく…。

翌10日(日)本宮、やぐらの正面右手に「貝掛青年団」の垂れ幕と小屋根に日章旗を掲げ、貝掛青年團を大々的にアピールしてました。そして波太神社宮入り、今までは「貝掛地区」として独立した扱いでしたが、同年より48年ぶりに山中渓が波太神社宮入りを再開したのを機に「貝掛及び旧西鳥取地区」と言う扱いに変わり、この年は馬場先で新町と一緒にまっせーしたと記録されてます。一方宮上がり、宮上がりを終え、拝殿前でくす玉を割った記憶があります。貝掛青年團発足のエポックかと思います。

11日(月・祝)後宮、例年通りの祭りでしたが箱作駅前で各町青年團ごとのイベントが行われる様になりました。当時は今ほど凝ったイベントじゃなくて、クラッカー程度の簡単なイベントでした。ただ、青年團発足にともない、今までだったらエエとこ取りと言うか、ところ曳き等は曳き手がいませんでしたがこの年は終始、青年團が曳き手として頑張ってました。

ただ…、初めての青年團。小心者の管理人は「團則!團則!」と言われて雁字搦めのイメージがあります。「勝手に別行動したらアカン!」やの「寄合無断欠席○回で除名」やの色々拘束されてて、青年團発足を喜ぶと同時に、マイペースなB型には窮屈にも思えました。

さて祭り終わって余韻にふけてた11月、尾崎駅前のとぐち書店の入口にやぐらのポスターが! なっ、なんと! 各地区別でやぐらのビデオ発売の広告なんです。当然ながら下荘地区編もあり、欲しかったのですが1本5,000円。学生の身分には非常に高額ながらも下荘地区編を購入。後ほど波太神社宮入総集編も購入し、以後継続購入してました。平成21年度は発売されませんでしたが、平成5年から20年まで16年間、トッププロさんのビデオを意識しながら祭りへ参加してた気がします。

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貝掛やぐら曳行の記録
6月9日(水) / 皇太子殿下御成婚に伴う記念曳行 − 指出森神社 → (村中一周) → アーチ前(箱作東,箱作西と合流) → (海手廻り) → 指出森神社 → (海手廻り) → 菅原神社 → 箱作東の浜 → 加茂神社(箱作東,箱作西と離散) → 箱作駅前 → 箱作駅前付近駐車場 → 万願寺付近広場 → (海手廻り) → 指出森神社
10月9日(土) / 試験曳き − 指出森神社 → (海手廻り) → アーチ前 → (山手廻り) → 指出森神社
10月10日(日) / 本宮 − 指出森神社 → (村中一周) → 体育館前 → 波太神社(新町とまっせー) → 南海団地・桜並木付近 → (村中一周) → アーチ前 → タカラブネ前(箱作東,箱作西と合流) → (下荘小学校前経由) → 箱作駅前(箱作東,箱作西と離散) → (海手廻り) → 指出森神社
10月11日(月) / 後宮 − 指出森神社 → (村中一周) → 箱作駅前(箱作東,箱作西と合流) → 箱作東の浜 → 下荘漁港 → (箱作駅前にて箱作東,箱作西と離散) → アーチ前(箱作東,箱作西と合流) → (海手廻り) → 指出森神社 → (海手廻り) → (下荘小学校前経由) → 箱作駅前(箱作東,箱作西と離散) → (国道26号線経由) → (海手廻り) → (アーチ前にてUターン) → (海手廻り) →  指出森神社

※注) 海手廻り=C→D→A・A→D→C、山手廻り=A→B→C、村中一周=C→D→A→B→C











管理人のおもひで日記 #.11



管理人のおもひで日記・其の拾壱 (平成6年/1994年)

平成6年/1994年、管理人がK大学2回生の年、この年初めて他町のやぐら見学に足を運びました。9月18日(日)に行われた西鳥取上組やぐら新調入魂式。何処でその情報を仕入れたかは覚えてませんが、カメラ片手に波太神社へ足を運びました。わずか6枚撮影、当時の写真を見る限りでは境内には人が少なくて撮影し易かった様です。

さて自町秋祭り、團長はMさん。この年の一番の想い出の一言は「出してまえ!」。まぁ詳細は書きませんが…、未だにあの時の一言は脳裏をよぎります。ちなみにこの年、青年團の記念品としてテレホンカードを頂戴しました。今でも宝物として大切に保管しています。

ちなみに11日(火)後宮、当然ながら学校サボリました。

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貝掛やぐら曳行の記録
10月9日(日) / 試験曳き − 指出森神社 → (海手廻り) → 貝掛団地 → アーチ前 → (山手廻り) → 指出森神社
10月10日(月) / 本宮 − 指出森神社 → (海手廻り) → 体育館前 → 波太神社(榮組,波有手組,西鳥取上組とまっせー) → ロンドン前 → アーチ前 → (村中一周) → アーチ前 → タカラブネ前(箱作東,箱作西と合流) → 箱作駅前(箱作東,箱作西と離散) → (海手廻り) → 指出森神社
10月11日(火) / 後宮 − 指出森神社 → (海手廻り) → 下荘保育所前(箱作東,箱作西と合流) → 箱作東の浜 → 下荘漁港 → (タカラブネ前にて箱作東,箱作西と離散) → (村中一周) → アーチ前 → タカラブネ前(箱作東,箱作西と合流) → 加茂神社 → 箱作駅前(箱作西と離散) → (国道26号線経由) → 草竹商店(八百屋)付近 →  指出森神社(箱作東と離散)

※注) 海手廻り=C→D→A・A→D→C、山手廻り=A→B→C、村中一周=C→D→A→B→C

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▲ 貝掛青年團の記念テレホンカード。











管理人のおもひで日記 #.12



管理人のおもひで日記・其の拾弐 (平成7年/1995年)

平成7年/1995年、管理人がK大学3回生の年、この年は我が下荘地区において忌々しい年でもあります。この悲しい経験は二度と繰り返したくありません…。下荘地区だけじゃなく、波太神社でも忌々しい事故があり、この書き込みをしながら改めて安全曳行の大切さを痛感しました。

さて本宮、波太神社宮入りが遅い順番だったので夜、箱作駅前へ行く予定じゃなかったので帰路はダルダルで帰町してました。当然、梶台持つ人間もいなくて蓮池あたりで「管理人くん!」と呼ばれ、僕も梶台持つ事に…。で、その際「箱作駅、行きましょよ!」と幹部へ声かけたら「行こか!」との返答! 團長を含む青年團幹部の英断には今でも頭が下がります。結局、波太神社から箱作駅前まで休憩なしで一気に曳行し、余裕で間に合いました。

続く後宮、後宮の昼に箱作東の浜〜下荘漁港と行った後、例年ならば貝掛中学校下を通って帰町するのですが何故かこの年は勢いあまって国道26号線を一気にぶっ走ってしまいました。まぁ僕も一緒に、必死に曳いてましたが、この年を境に後宮の昼も国道26号線を通る慣例ができてしまいました。

あと、我が貝掛には関係ありませんが後宮の夜、下荘地区を除く16町(相生町復活前)が尾崎駅前にてパレードを実施しました。下荘地区よりも遠い山中渓も参加したと聞き、何故貝掛も参加しないのか? 当然ながら疑問&不平不満を抱きながら祭りへ参加してました。結局このパレード、6年越しの平成13年にやっと参加できました。逆に言えば6年間もパレードへ参加したいと言う感情を抱きながらの祭りへの参加だった訳なんです。

ちなみにこの年、青年團の記念品としてうちわを頂戴しました。今でも宝物として大切に保管しています。また11日(水)後宮、この年も当然ながら学校サボリました。

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貝掛やぐら曳行の記録
10月8日(日) / 試験曳き − 指出森神社 → (海手廻り) → 貝掛団地 → アーチ前 → (山手廻り) → 指出森神社 → (海手廻り) → アーチ前 → (山手廻り) → (草竹商店付近にてUターン) → 指出森神社
10月10日(火) / 本宮 − 指出森神社 → (村中一周) → アーチ前 → 貝掛団地 → 体育館前 → 波太神社(波有手組,西鳥取上組,榮組とまっせー) → 箱作駅前(箱作東,箱作西とまっせー) → 武輪建設仮作業場 → (海手廻り) → 指出森神社
10月11日(水) / 後宮 − 指出森神社 → (海手廻り) → 箱作駅前(箱作西と合流) → 箱作東の浜(箱作東と合流) → 下荘漁港 → 箱作駅前(箱作東,箱作西と離散) → (国道26号線経由) → 指出森神社 → (海手廻り) → アーチ前 → (村中一周) → 菅原神社付近 → 菅原神社(箱作東,箱作西と合流) → タカラブネ前(箱作西と離散) → 箱作駅前 → (国道26号線経由) → (草竹商店付近にてUターン) →  指出森神社(箱作東と離散)

※注) 海手廻り=C→D→A・A→D→C、山手廻り=A→B→C、村中一周=C→D→A→B→C





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